毎日新聞 4月3日(木) 西玉弘さん 来年の終戦70年を前に、戦没学生らの資料を収集する「わだつみのこえ記念館」(東京都文京区)が、太平洋戦争末期に日本統治下の台湾から学徒出陣した元学生の証言集めに乗り出した。和歌山県田辺市の西玉弘(たまひろ)さん(89)が、自作した台南師範学校の日本人同級生213人の名簿を提供したのがきっかけ。台湾からの学徒出陣に関する資料は同館になく、1人目の証言者となった西さんは「記録を後世にとどめてほしい」と語った。【木村葉子】 【学徒出陣】「悲劇」伝承の役割を大学に求めたい ◇体験者作った名簿元に 西さんは和歌山県内の林業学校を卒業後、仕事に就くため商船でジャワ島に向かったが、戦況の変化により船が台湾でストップ。教員養成の台南師範学校に入学し、終戦前年の1944(昭和19)年9月に学徒出陣した。 教育隊(予備士官学校)入隊後は地上戦を想定した訓練に明け暮れた。しかし、戦闘の機会はなく、空襲を受けながら米軍の上陸が想定される海岸などを転々としているうち終戦に。 46年3月、高雄から復員船で帰国し、田辺市内で中学校の教壇に立った。「過去のむごいことは聞かせたくない」と戦争の話はしなかったという。 70年ごろ、盛岡市で開かれた全国校長会で偶然、同級生と再会。当時の話題になり「みんなを捜してくれないか」と持ち掛けられた。これを機に「戦友」の消息をたどりたいという思いが募った。 数年後、台湾人の同級生を現地に訪ね、氏名や出身校を掲載した当時の名簿を入手。全国の電話帳約200冊を手繰って同級生の名を探した。都道府県の教員名簿を取り寄せたり出身校に問い合わせたりし、全国を飛び回った。 故人の消息をつかむのに時間がかかり、全員にたどり着くまで20年近い時間と数百万円を費やした。 名簿は交流に活用。同期会を84年から2006年まで23回開き、2回の訪台で現在は大学となった母校も訪ねた。西さんは今も名簿を年2回更新し、存命の57人に送っている。 昨年8月、長女の麓(ふもと)真知子さん(61)が学徒出陣を語り継ぐことの大切さを訴えた毎日新聞記事を読み、西さんと共にわだつみのこえ記念館への名簿提供を申し出た。 同館の渡辺総子(ふさこ)常務理事は「大変貴重だ。ぜひ証言集めを続けたい」と話している。 ◇西玉弘さんの証言 最前線に「捨て身」になる訓練だけ 学校近くの公園であった数百人の出陣式では「祝入営」と墨で書かれた下級生手作りののぼりが立った。だが、寮生活だったため見送りはなく、「家族にも会わぬままに行くのか」とわびしい気持ちもあった。 入隊後は上陸してくる戦車を想定し、背嚢(はいのう)に爆弾代わりの砂を40キロも詰めて飛び込む訓練を繰り返した。最前線で「捨て身」になるためのものばかり。人間が「命ある兵器」になっていると感じた。 生きて終戦を迎えたが、徹底抗戦を訴える教育隊教官の若手将校らの主張で約500人の隊員が2週間近く訓練を続けた。抗議した同級生の一人が自殺を図り、私が野戦病院で最期をみとった。この後、部隊は解散したが、あと数日訓練が続いていたら私が教官を殺していたかもしれない。この同級生の遺族とは連絡が取れ、1991年に墓参を果たすことができた。 |